東邦出版株式会社:いま、横須賀で起きている奇跡が一冊に。

東邦出版株式会社:いま、横須賀で起きている奇跡が一冊に。

全国ただ1カ所、ペットと暮らせる特別養護老人ホーム(特養)が神奈川県横須賀市にある。
そこで飼われている犬や猫たちが、入居者やその家族、親類縁者に対して起こしている「奇跡の数々」を、15の掌編にて紹介した本が発売され、即重版となっている。
なかでもシバ系の雑種・文福(ぶんぷく)の驚くべき才能による感動ドラマは、ペット愛好家はもちろん、高齢者福祉に携わる多くの者たちの話題に上っている実話である。
表題の文福ほか、描かれるすべての犬・猫の物語は深く胸に迫り、子供も大人も涙なしでは読めない。「看取り犬」という存在は、すでにNHK特番や新聞・雑誌で広く紹介されているが、本書を機に日本中で知られるようになるだろう。
著者は1965年神奈川県生まれ。横浜国立大学教育学部卒。世界で初めてクローンマウスを実現した実弟・若山照彦を描いた『リアル・クローン』で第6回小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。教員を退職後、社会福祉法人心の会を創立。本書の舞台であるホームの理事長・施設長を務めているが、今回は内部関係者としてではなく、第三者の立場をとり作家として執筆した。

第1話 看取り犬・文福 –––奇跡の保護犬–––

2の1ユニットのリーダー・坂田弘子が文福の不思議な能力に気がついたのは、ホームがオープンして2年近く経ったころだった。

「なんだか文福は、今日はずーっと井上ヤスさんのお部屋の前にいますね」

介護職員どうしの何気ない会話が、坂田の脳裏を刺激した。なにかが頭の隅に引っかかっているのだが、思い出せない。

「ほんとね。なんだか項垂れていて、悲しそうな感じじゃない?」

え? 部屋の扉の前で項垂れている?

悲しそう?

それは確か……。

半年前のことを思い出していた。半年前に逝去された一条さんの部屋の前でも、文福は悲しそうに項垂れていたではないか? さらのその数カ月前に逝去された三春さんの部屋の前でも……。

思い出す限り、これまでユニットの入居者が亡くなった場合は、文福はいつも部屋の扉の前で項垂れていた。悲しそうにしていた。

入居者が亡くなったあとのことではない。亡くなる直前のことだ。文福はいつも、入居者が逝去される2~3日前に、部屋の扉にもたれかかるようにして、座っていたのだ。

心がざわめくのを感じた。続いて心の底から温かい気持ちがわき出してきた。もしかしたら文福には、入居者の最期が近いことがわかるのだろうか? そして入居者を看取ろうとしているのだろうか?

坂田は、文福の行動を注意深く観察することにした。このときユニットは、入居者の井上ヤスさんの看取り介護体制に入っていて、大変忙しい状況だった。坂田にも余計なことをしている余裕などなかったが、なにしろ文福は看取り介護の対象である井上さんの居室の前にいるのだ。介護をする際には必ず目に入るので、少し意識しておくだけで、観察は可能だった。

文福は、そこから半日間、部屋の扉の前から動かなかった。ずっと悲しそうに項垂れていた。その様子を見て、職員のあいだにざわめきが広がった。これまで見過ごしていたが、明らかに文福の様子は普通ではない。文福の悲しみが感じ取れた。

半日が経過したとき、職員が井上さんの部屋に入ろうとすると文福がついてきた。それまでは、職員が何回も出入りしても扉の前から動かなかったのに。いや、そもそも文福は扉を自分で開けることができる。それなのに居室には入らなかったのに、なぜかこのときは一緒に入ってきたのだ。

部屋に入ると文福はベッドの脇に座り込んだ。座り込んで、じっと井上さんの顔を見つめていた。そのまま動こうとしなかった。

「文福、出ないの?」

もはや水を飲むこともできない井上さんの唇に、濡らしたガーゼを当てて湿らせ、少し顔を拭いたのち、職員は部屋から出るときに声をかけた。しかし、文福は動こうとしなかった。ちらっと職員に訴えるような視線を投げかけたあと、すぐに井上さんに目を戻した。そのままひたすら見つめ続けた。

ベッド脇での文福の見守りは、やはり半日間続いた。

この段階になると、坂田の胸のなかには、確信に近い思いが生まれていた。文福は間違いなく、井上さんの最期が近いことを察して見守っている。これまで可愛がってくれた井上さんに別れを告げようとしているのだろう。あるいは、井上さんがひとりで旅立つことがないよう、最期までそばにいるつもりなのかもしれない。

翌日、文福はベッドに上がると、井上さんの顔を慈しむようになめた。井上さんの表情が緩む。ワンコユニットに入居を希望したのだから、井上さんも大の犬好きである。意識はなくても喜んでいるのだろう。

そこから文福は、井上さんにぴたりと寄り添った。離れるのは、トイレやご飯のときだけで、ずっと寄り添い続けた。

翌日、井上さんは穏やかに旅立たれた。文福は井上さんの最期を看取ったのだ。

*        *        *

いつも元気いっぱいの文福は、その陽気さと、最高の笑顔が入居者に愛されている。普段は寂しそうな様子を見せることはないが、看取り介護の対象者に寄り添うときは切なそうな表情を浮かべる。

ユニットで、井上さんの次に入居者が逝去されたのは半年後のことだった。そのときも、まったく同じ行動をとっていた。逝去される3日前に、部屋の扉の前で項垂れていた。半日間扉の前にいたあと、部屋に入り、ベッドの脇に座って入居者を見守っていた。逝去される2日前にベッドに上がり、入居者の顔を慈しむようになめ、そこからはずっと寄り添っていた。

その次の方も、さらに次の方も、文福がベッドに上がり、顔をなめて、寄り添い始めてから2日以内に逝去された。

文福はただ単に入居者の最期を察知しているだけではない。明らかに入居者の最期に寄り添うという意思を持っていた。

坂田はこの文福の看取り活動を見るたびに、言い知れぬ感動を覚えていた。

文福は保護犬、つまり保健所で殺処分予定だった犬である。翌日には殺処分になるという、まさに死の寸前で、動物愛護団体の『ちばわん』に救われたのだ。『ちばわん』が保健所で撮影した文福の顔は、いまとは似ても似つかぬものだった。暗く引きつった絶望の表情が浮かんでいた。

かつて人間に捨てられ、命を失いかけた文福が、こうして高齢者の最期を見守るために全力で尽してくれるとは……。

坂田は心から感動していた。

いや、おそらく文福は、人に見捨てられ、ひとりぼっちで死の淵に立ったからこそ、死に向かい合う不安を理解しているのだろう。だから入居者をひとりで旅立たせないよう、最期まで寄り添って、見守ろうとしているのかもしれない。

文福の看取り活動は、老人ホームで高齢者とペットが共生できることを、共生することに意義があることを、職員に確信させた。

*        *        *

文福の看取り活動がもっとも輝いたのは、佐藤トキさんが逝去された際のことである。

佐藤さんは、ホームに入居した時点で重度の認知症だった。認知症の症状は色々あるが、佐藤さんは理解力や判断力の低下に伴い、感情の動きもなくなってしまうタイプだった。入居したときから暗く固まった顔をしており、その表情はほとんど変わることがなかった。身体機能は衰えていないので、家族が声をかければ反応し、指示に従ってご飯を食べたり、歩いたりすることはできるが、自分から自発的に動いたり、声を発することはほとんどなかった。もう家族の顔も名前もわからなくなっているとのことだった。

息子さんたちは、大の犬好きで長年犬を飼っていた母親が、犬と一緒にいられる老人ホームで暮らせば、いくらかはイキイキするのではと、一縷の望みを『さくらの里山科』に託したのだ。

そんな佐藤さんの顔に、ほんのわずかだが笑顔らしき表情が浮かんだのは、入居2日目のことだった。椅子に座っている佐藤さんの正面で文福が立ち上がって膝に抱きつき、食卓の下からにょきっと顔を出したのである。佐藤さんは、かすかだが間違いなく微笑んでいた。

佐藤さんが自ら声を発し、腕を差し伸ばしたのは、入居5日目のことである。

「ポチや、ポチ」

文福はポチと呼ばれたにもかかわらず、尻尾を振りながら駆け寄ってきた。ばふっと椅子の横から佐藤さんに抱きつき、頭をぐりぐりとこすりつけた。

「おお、ポチ、ポチ」

佐藤さんの顔に、今度は誰が見てもわかる笑いが浮かんだ。

入居から1週間後、面会に訪れた家族は、信じられない光景を目にすることになる。

「ポチや、ポチ。どこに行ってたのよ~。探したのよ~」

佐藤さんが顔をくしゃくしゃにして涙を流しながら文福を抱きしめていたのだ。

「母があんな顔をできるなんて信じられません。ここに入居させてよかったです」

息子さんは、うっすらと涙を浮かべながら、坂田に向かって深々と頭を下げた。

しかし、息子さんたちは1カ月後、さらに驚愕することになる。

佐藤さんの状態は、日に日によくなっていった。2週間後には「ポチや、ポチ、どこにいるの?」と、文福を探してユニット内を歩き回るようになった。文福は、佐藤さんがポチやと声を出すと、すぐに駆け寄ってくる。それを佐藤さんはしっかりと抱きしめ、やさしく身体を撫でていた。

ポチとはもちろん佐藤さんが昔飼っていた犬の名前である。息子さんたちがまだ幼いころ飼っていた犬だそうだ。文福と同じ柴犬系の雑種だが、文福よりはひと回り小さく、あまり似ていないと息子さんたちは言っていたが、佐藤さんは自分の愛犬のポチだと思い込んでいた。

しかし、驚くべきことに、3週間後には佐藤さんは「文福」としっかり呼びかけていた。いま、自分がお気に入りの犬は文福であると、現実が認識できたのだ。目覚ましい回復ぶりだった。

そして、入居1カ月後に息子さんたちが面会に訪れたときに奇跡が起きた。

「あら、幸一、来てくれたの?」

佐藤さんは澄んだ目で息子さんを見つめ、嬉しそうに名前を口にしたのである。なんと、顔と名前がわかったのだ。

信じられない事態に息子さんは絶句した。

認知症はまだそのメカニズムが解明されておらず、治療法も見つかっていない。治療薬は色々と研究されているが、そのほとんどが認知症の進行を予防するもので、回復させるものではない。認知症は現代の不治の病なのだ。もちろん、環境の変化や、周囲の働きかけ、音楽や手工芸などの様々な活動によって、一時的に症状が回復することはある。とはいえ、これほど劇的に回復することは、20年近く介護の仕事をしてきた坂田も見たことがなかった。

「お袋、俺のことがわかるの?」

息子さんは人目もはばからず号泣した。もう二度と母親とまともな会話をすることはできないと思っていたのだ。

それから約1年半のあいだ、佐藤さんは本当に幸せそうだった。

「私は犬が大好きで、子供のころからずっと飼っていたの。でも70を過ぎたときにあきらめてね。そこから10年以上、犬と暮らしていないの。とても寂しかったわ。こうしてまた犬と一緒に暮らせるなんて夢みたい」

また犬と一緒に暮らせるなんて夢みたい。それが口癖だった。文福を撫でながら、いつもそう言っていた。

佐藤さんのそばにはいつも文福がいた。もちろん文福は全ての入居者のそばにいる。分け隔てなく入居者全員に甘えたり、じゃれついたりしているのだが、佐藤さんが文福を求めると必ずすぐそばに来た

*        *        *

佐藤さんの体力はゆっくりと衰えていった。取り戻した犬との絆、家族との絆は失われなかったが、認知症は進行し、色々なことができなくなっていった。とうとう、起き上がれなくなり、ベッド上で暮らすようになった。

「息子たちには悪いけれど、私は文福に看取ってもらいたいの」

寝たきり状態になっても、佐藤さんはいたずらっぽく笑っていた。そのベッドに文福はよく潜り込んできた。まだ看取り活動を行っているのではない。普通に佐藤さんに甘えていた。

「ほら、文福、おいで~」

寝ている佐藤さんの肩に頭をこすりつけてくる文福を抱きしめる光景は、とても微笑ましいものだった。職員たちはその光景を見るたびに笑い声を上げていた、うっすらと涙を浮かべながら。

そして、ついに文福が部屋の扉の前で項垂れるときが来た。それまで自由に出入りしていたのに、けっして部屋には入らなかった。悲しそうにずっと項垂れている。

半日後、文福はゆっくりと部屋に入るとベッドの脇に座り、じっと佐藤さんの顔を見つめた。それまではしょっちゅうベッドに上がり込んでいたのに、けっして上がらなかった。

翌日、文福はそっとベッドに上がると、佐藤さんの顔を慈しむようになめた。

「ありがとう、文福」

かすかに佐藤さんの唇が動いた。ごくごくかすかだが、口元には微笑みが浮かんでいた。もう話はほとんどできなくなっていたのだが、間違いなく佐藤さんはそう呟いた。

そして、息子さんたちに見守られながら穏やかに旅立った。その枕元には文福が寄り添っていて、ひたむきに見つめていた。佐藤さんは希望どおり、文福に看取られたのだ。

佐藤さんが入居してから逝去されるまでの日々は、奇跡的な出来事として、いまでも職員の記憶に残っている。

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